昭和43年3月10日 朝の御理解
中村良一
おかげを頂きますにも、信心を分からせて頂くに致しましても、お徳を頂くに致しましても、やはり、それぞれ、一つの手掛かりというものが必要なんです。手掛かりなしには、おかげは受けられません。手掛かりがあるという事、手掛かりを作るという事が大事なんです。例えば、あの、警察の方達が、犯人を捜されますですよね。もう、ようとして、その、例えば、犯人の行方が分からないとか、または、誰が犯人やら分からないと、という様な時に、手掛かりを掴むとか、手掛かりを作る事に、一生懸命になられます。手掛かりが付いて参りますと、そこかから、一つ一つ、はっきりしてくる。という事と同じこと。私共も、おかげを頂くに致しましても、信心を分からせて頂くに致しましても、お徳を受けるという事は、なおさらのこと、手掛かりなしには受けられません。そこでその、手掛かりを、私共が、求め、手掛かりを追求するところのおかげを頂かなければならんのです。漠然とした信心ではいけません。
二代金光様、四神様が、ある方に、金光様、どういう信心をさせて頂いたなら、よろしゅうございましょうか。おかげを受けられましょうか。四神様は仰った。そうじゃな、信心の中にも、様々あるけれども、拝む信人、参る信心様々じゃと。けども、まぁ精いっぱい、参る事じゃなと。参り信心じゃなと仰ったそうです。というのはね。お参りをして来よれば、お広前に近づかせて頂きよれば、何とはなしに、そこから、本人が、手掛かりを作ってくれるであろうという事だろうとこう思うですね。お参りをしておる内に、本当に気付かせて頂く事。お参りをすると、御教えを頂く、その御教えを頂いておるうちに、はぁ、あそこ、あれだとこう分からせて頂く。だから、そうじゃなぁ、まぁ、いっぱし参る事じゃ。参り信心がと仰った。信心の程度に応じてお説きになったんですね。そこで皆さん、こうやってお参りをしてきておるのでございますから。その、お参りをしてきておることが、漠然としておるよりも、手掛かりを掴もう、手掛かりを頂こうという、意欲とか、願いを持っての、お参りである事によって、神様が、手掛かりを作らせて下さるおかげが受けられるのです。家で言いおっただけじゃ、まぁ、拝まんよりも良かろうばってんね。家でも拝む、しっかり拝む事も良かろう。けれども、お道の信心は、何と言うても、お参りをする事じゃ。一端、お参りをする事じゃ。まぁ、拝み信心、参り信心というけれども。まぁ、精一杯、お参り信心をさせて頂く事じゃなと、こう仰った。という、その、四神様の心の中には、参って来ておるうちに、手掛かりをつかむ事が出来るでもある事も出来るであろうというのが、御神意であろうと、私は思うですね。
皆さん、朝の御祈念、参って来てから、御理解を頂かれる。皆さん、真剣に頂いておられる。やはり、朝参りでもしてこうという、その真剣な気持ちがあるからなんです。ところが、昼ごろから参ってくる人達がある。まぁ、いうなら、寝たいだけは寝てから、お参りをしてくる人達である。まぁ、それがいけんのじゃないですね。まぁ、いっぱし、参りよりなさるところは。そこで、最近では、テープレコーダーがございますから、テープレコーダーを、まぁ、何時もあそこで、五人十人の人が、こうやって頂いておる。一生懸命に頂いておる人もあるけれども、途中で立って来てから、お届けをする人もある。ちっとでん、早う帰ろうと思うて。御理解は、後先だけしか聞いとらんのです。こげなことで、これじゃ、どこに手掛かりがあるやら分からんものをね。それでも、お参りをしてきて、もう、ほんの、ちょいちょいと拝んでから、つっと、ご理解が、そのテープが、みんなで頂きよったっちゃ、頂こうともせずに帰る人もある。これは、本当に、信心意欲というものが無い証拠なんです。もう、おかげは受けておる。こうして、毎日、日参さえしよら、もう本当に、こげなおかげを頂いておる。それだけで良かりゃ良いけれどもです。より、おかげを頂きたい。より、信心を分からせて頂きたい。いよいよ信心とは、お徳を受ける事で、お徳を受けるために、お徳を受けるためにはという様な追求心、願いの心があればです。どこの端からでも頂く。ね。
以前、椛目の時代は、私が、こうして、ご結界奉仕して、御理解を説かせて頂く。この後ろがろうかであった。後ろを歩くと障子が長くこうあった。障子があって、向こうは、畳廊下であった。お参りをしてくる人達は、もう、静かに静かに開けて、入ってくるんですよね。ここで、一生懸命、私が、当時は、テープレコーダーが無い時分なんかは、もう、朝から晩まで、御理解が出放しであった。それでまぁ、皆さんが頂いておられる、その御理解のお邪魔になっちゃならんから。ここに来た人が、障子の向こうで、じーっと、拝聴しておる。もう、ここで頂いておるもんよりか、本当に、いわゆる、拝聴しておる人の方が、おかげ頂く。障子の向こうで頂いて、ね。ですから、テープレコーダーででも、おかげ頂けん筈はない。今朝の御理解の中から、夕べの御理解の中から、ぱっとそこに、一つの手掛かりをつかむ、手掛かりを頂こうという願いがあるか、無いかで、その人の信心が進むか、進まないか。おかげを受けるか受けないか。お徳を受けて行く人、いけない人の差が出てくるんですよ。おかげだけは、もう頂いて、お取次をしっかり願ってもですね。その手掛かりすら、頂こうとしない。そして、どういう信心したなら、おかげ頂くじゃろかばっかり言うておったんで、おかげの頂ける筈がない。手掛かりというのは、自分で掴むもの。そこで、初めの間は、何が何やらわからんで、お参りをしてきておるけれども。段々、お参りをさせて頂いておるうちに、その御理解の端々からでもです。本当、自分の心の中に感じたり。信心ちゃ、そういうものだ。おかげのあるも無きも和賀心と仰るが、その和賀心次第なのだ、という様な事が分かってくる。ただ、参った、拝んだだけじゃいかんけれども。参り、拝みしておるうちに、手掛かりをつかませて頂く事が出来るのである。皆さん、その気にならなければ、惜しいでしょうが。皆さんが、今、心の中で、何を求めておられるかは、それは、銘々なのである。おかげおかげ、信心信心。本当に、お徳を受けなければ。そういう、どういう願いにあっても同じこと。手掛かりなしには、おかげは受けられない。これはね。ほんなら、氏子可愛いと、如何に、神様が、思し召しましてもね。手掛かりなしには、氏子を助けて下さる事は出来ないですもん、神様とても。第一、私共が、こうやって、おかげを受けられるようになった。難儀な氏子が、どんどん、取次助けられる事になった。そこには、天地の親神様が、いわば、教祖の神様という、もう、それこそ、かって、こんな氏子見た事が無かったという様な氏子を、いわば、探し出された。手掛かりを作られた。そして、神様が、一歩いざった様な姿かたちを持ってです。どうぞ頼むと言うておられます。難儀な氏子を取次助けてやってくれ。これなんか、もう、最大の手掛かりなんですよね。天地の親神様が、難儀な氏子救済のために、やはり、そこに、手掛かりがなからなければ助ける事が出来ん。思うておるだけじゃ、神様の、いわば、願いとても成就しないように。これは、私共の願いも同じ事が言える。そういう意味合いに於いてからね。お参りをする、ご理解を頂くという事は、そういう手掛かりを作るための、もう一番、いわゆる、最短距離なんだ。一番の近道なんだ。だから、いかに真剣に頂かなければならないかという事が分かる。
私は、この、手掛かりを作るためにね。まぁ、言うなら、四神様が、精一杯参る事じゃと。お参り信心じゃ。参っておるうちに、おかげを頂きたいという、そのおかげの手掛かりを掴むであろうというお心が、その事の中から、感じられます様にですね。これが、信心が分かりたい。本当の信心が分かりたい。このお徳に、船に乗って渡れとか、徳を受けなければ、人間の真実の幸せはありえないとか。この世だけじゃない、あの世までも、助かりを願うならば、この世で徳を受けとかにゃいかんぞと。まぁ、大変な大事な事を教えて頂きましてもです。その徳を、ほんなら、如何にして受けるかという事をです、何時も心に頂かなければ。はぁ、この手でいけば、この信心でいけば、お徳が受けられるぞという手掛かりを、皆さんが、銘々に掴まにゃいかん。そこで、そういう手掛かりを頂かせて頂くために、私共が、どういう状態である時が、一番、その手掛かりが掴み良いかという事。心が乱れ、心に不安がある、焦燥がある。本当に、汚い心の中で、心の中が一杯だ。そういう様な状態の時にはですね。例えば、本当の良い信心とか、お徳を受けられるような、その手掛かりは、あっても掴めないです。そこで、ほんなら、私共は、厳密に言えば、お詫びをする事が一杯であり、お礼を申し上げる事が一杯であり。こんな私という、いわば、この様な自分という事が分かってくるのでございますからです。そこを、日々ですね、ご祈念をさせて頂く時に、皆さんが、祈られる内容としてです、お詫びの信心がある訳ですよね。心行くまでお詫びをする。心行くまでお礼を申し上げる。神様が、私のお礼を聞いて下さった。神様は、私のお詫びを聞いて下さったという様な所まで、お詫びをする。そのために修行をする。そのために、一生懸命、ご祈念をする。これが大事なんです。そこに、私の詫びを聞き届けて下さったとか。私のお礼を、神様は、聞いて下さったという様な心の状態。そこから生まれる平生心。心が嬉しゅうなってくる。私の様な、お粗末御無礼者でも、一生懸命に、お詫びをさせて頂いたら、神様が、許して下さった様な気がする。そこから、嬉しゅうなってくる。有難うなってくる。そういう心で追求する。そういう心で、その手掛かりを、手掛かりをという風に、手掛かりを頂くことを、一生懸命になるとですね。そういう心で、私は、良い信心とか、お徳を受ける信心の手掛かりが掴めるものだと、私は思う。
今日は、もう、皆さんが、私共も、一つの、大きな願いと期待を持っておる訳でございますけれども。須田孝太郎先生が、久留米にお見えます。こっからも、沢山の人が、まぁ、おかげを頂く訳でございますけれどもですね。漠然として、話を聞いただけじゃいかんのです。ね。須田先生のお話の中から、何かの、一つ、手掛かりを頂こうと。何かの手がかりを頂かせて頂こうという、私は、願いを立てなければいけません。それも、ただ、手掛かりを掴もうというだけではいけん。その手掛かりを頂かせて頂くために、今日、私が申します様に、心行くまでの、いわば、ご祈念。心行くまでのお詫び。心行くまでのお礼を申し上げさせて頂いて、心が嬉しゅうなって、心が有難うなって、そして、今日の須田先生のお話の中から、何かを掴もう。いわゆる、手掛かりを頂こうというおかげ。その手掛かりが、おかげへの最短距離である。はぁ、こういう信心頂かなきゃ、お徳は受けられんなといった様な、そのものをですね、分からせて頂くとするなら、大変な、有難い事になってくる。そういう、有難い、ね。例えば、半日を費やして行くのでございますから。せっかく、ただ、良かお話じゃっただけの事ではいけませんから。お互いの、銘々に持っておる願いの成就するための手掛かりを頂かせて頂こうとする、一つ、願いを持って学んで頂きたいと思うですね。どうぞ、手掛かりを頂かねばいけません。どうぞ。